|
|
青島と歌碑 |
古くから景勝地として名高い青島は、古来より多くの人々によって、詩や歌にうたわれています。そして若山牧水をはじめ多くの文人が訪れ、歌碑も残されています。 |
|
若山牧水(わかやま ぼくすい) |
歌人。本名繁。 |
明治18年8月24日、医師若山立蔵(りゅうぞう)の長男として宮崎県東臼杵郡坪谷村(現日向市)に生まれる。延岡中学時代から作歌、牧水と号し、早稲田大学英文科に入るとともに尾上柴舟門下となって雑誌『新声』の歌壇による。1908年(明治41)卒業と同時に歌集『海の声』を出版し、10年出版の第三歌集『別離』によって同門の前田夕暮とともに歌壇に「牧水・夕暮時代」を現出させ、前後2回の短い新聞記者のほかは、もっぱら歌人として生活する。20年(大正9)東京から静岡県沼津に移り、28年(昭和3)9月17日に没した。 |
また、1910年創刊の歌誌『創作』を生涯主宰し、全国多数の新聞雑誌歌壇の選者として広く後進を導き、歌のほか優れた紀行文、随筆が多く、生地に記念館がある。 |
●歌碑の場所…参道筋の松林 |
檳瑯樹(びろうじゅ)の古樹(ふるき)を想へその葉陰 海見て石に似る男をも |
|
|
|
|
|
長塚節(ながつか たかし) |
明治12年〜大正4年 歌人、小説家。 |
茨城県岡田郡国生村(現 石下町国生)の豪農の長男として生まれる。
3歳の頃に小倉百人一首をそらんじ、神童と言われ、早くからその才能を発揮 していた。 |
21才で正岡子規の門をたたき、伊藤左千夫らと「アララギ」を創刊。一方で病気療養を兼ね、すげがさ、わらじという軽装で諸国を旅し、旧所、名跡を訪ねて歌を詠んだ。
結核を発症し、旅をしながら九州大学付属病院で37才の短い生涯を閉じる。 |
●歌碑の場所…青島亜熱帯植物園内 |
とこしへに慰もる人もあらなくに枕に潮のをらぶ夜は憂し
(大正3年9月13日 36歳) |
|
|
|
|
|
|
金子兜太(かねこ とうた) |
大正8年、埼玉県に生まれる。秩父郡皆野町に育つ。 |
茨城県旧制水戸高校在学中に俳句を始め、復員後日銀に勤めていた昭和37年に俳句「海程」を創刊。現代俳句協会名誉会長。 |
句碑は金子さんと親交のあった故山下淳さんの夫人の呼びかけで、宮崎俳句研究会、海程宮崎支部などが賛同して建立。宮崎市芸術文化連盟などが協賛した。 |
●句碑の場所…青島亜熱帯植物園内 |
ここ青島鯨吹く潮われに及ぶ (平成17年7月10日 85歳) |
|
|
|
|
|
歌碑は残されていませんが、放浪の俳人として有名な種田山頭火も青島を訪れ、よんだ俳句が残っています。 |
|
|
種田山頭火(たねだ さんとうか) |
明治15年に山口県で生まれる。明治・大正・昭和にかけての俳人で、自由律俳句のもっとも著名な一人。大正14年に寺男となり、翌年から雲水姿で西日本を中心に回りながら句作を行い、旅先から俳句雑誌「層雲」に投稿を続けた。 |
青島にある「角屋」に宿泊したことがあり、俳句を詠んだ事がある。 |
波の音たえずして郷(ふるさと)遠し |
|
|
|
古に残る青島を詠んだ歌 |
|
|
|
桜川瀬々の白波しけければ ほのかに見ゆるしだの浮島 |
|
赤玉は 緒さへ光れど白玉の 君がよそひし尊とかりけり |
|
沖津島 鴨つく島に我が寝ねし 妹は忘れず 世のことごとに |
|
|
|
|
|
歌碑はありませんが、古くから詠まれていた歌 |
|
|
|
おきつ島 鴨つく島による波の よるともみえぬ 秋の夜の月 |
(黒木光蔵) |
|
鯛とると船が帆かけて 乱るれば 沖は にわかに ひろくなりけり |
(長塚節) |
|
から国の草木しげれる青島の 木の下暗に 神あそぶらん |
(鈴清子) |
|
南より流れたる種子ひとつ わが遠き代のこと しぬばしむ |
(斉藤茂吉) |
|
みなぎれる朝開の海に橋ありて 青島に渡る人 多く見ゆ |
(土屋文明) |
|
磯の千鳥は なきなき渡る むこう青島 月あかり |
(野口雨情) |
|
浮ぶ青島 びろう樹のかげで とろり見ましようか異国の夢を |
(西条八十) |
|
<方言狂句> ビロン葉に冬んねえ国ん風が吹く |
(詠み人知らず) |
|
<尖りの浜にある石碑> 異国めく日向青島青嵐 |
(大野晩睦) |
|
|
|
|
|